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私にとっての幸福はいつだって画面の向こう側のものだ。
つまり現実にあるものではなくて、虚構にのみあるもの、それが幸福。
友情や愛情、喜びや快楽は画面の中の登場人物たちが経験することで、現実の私には決して訪れないものだった。
「だった」と過去形で記したけれど、それは現在進行形で感じていることでもある。
やっぱり幸福は画面の向こうにしかない。
そう思っている。
幸福は現実にないから、虚構の中のそれに嫉妬することもある。
画面の向こうの眩さに焦がれている自分がいる。
だけど手を伸ばすことはない。
ただ液晶に指が触れるだけだから。
嫉妬とか羨望とか、そういう思いを抱えることは苦しい。
今ここにいる自分自身では叶えられないから、つかみ取ることができないからこそ、幸福に強く焦がれる。
その焦がれた状態を自らのうちにとどめることは、とても耐えられない。
だから時折、幸福で充ち満ちた虚構から離れる。
虚構から離れることで現実に幸福がもたらされる。
そんな勘違いをしてみる。
結果として、やっぱり幸福は画面の向こうに閉じ込められていて、こちらには決してやって来ない。
そうして、また虚構の中の幸福を求めるようになる。
虚構の中の登場人物たちに自分を投影して、錯覚してみるのだ。
私は幸福の渦中にある、という錯覚を。
空しいことだけれど、最善策ではないと分かっているけれど、私にはその選択肢以外に選べるものがない。
なぜなら、私にとって幸福は現実にないものだから。
では「幸福が現実にないと思うか?」と問われると、答えは「いいえ」だ。
幸福は虚構の中だけでなく現実にもある。
ただし、私のいるここにはない。
でも、私は知っている。
幸福が現実にあることも、その幸福を手にすることができる人の存在も。
繰り返すが、ただそれが私ではないだけなのだ。
虚構の中にだけあるはずの幸福が現実にもあることが、私には不思議だった。
しかしそれは事実であるのだから、認めないわけにはいかない。
そうなると現実にあるはずの幸福を手にできる存在と、そうでない存在がいることに気づかなければならない。
そして、自分が後者の側に立たされていることも。
それに気づいた時、否応なく私は嫉妬、羨望を覚えた。
やがてそれらは憎悪へと変貌する。
だが、それも過去の話だ。
今、そのたぐいの憎悪はない。
なくなったのは幸福を手にする存在への憎悪であって、幸福の不均衡に対する憎悪は消えていない。
それは個別具体の人間への憎悪ではなく、世界の在り方への憎悪だろう。
誰かが富んでいるのに、別の誰かは貧しい。
そういう構造への憎悪。
不公平への憎悪。
いや、もしかするとこれへの憎悪ももはや私にはないかもしれない。
あったとしても、相当に薄められているような感じを覚え始めた。
なぜなら、世界はそういうものだから。
私たちはどのくらいのことを選べているのだろうか。
まずもって人間として生を享けることを選べていない。
生まれる国も時代も選べていない。
親や兄弟も選べていない。
肌、髪や目の色も選べていない。
その後、私たちは徐々に選べるようになっていく。
入学する学校や付き合う友人、眠る時間や夕食の献立を選べるようになる。
果たして、そうだろうか。
私からすれば、人間は選べるようになるのではなく、「自らで選んだ」という錯覚ができるようになるだけのような気がする。