Hopeless Diary

倦んでいます。

11

一年ぶりに何かを書いてみることにした。

あまりにも暇なので書くことしかなかったのである。

そこで一年前のタイトル「1」という記事を読んでみた。

 

ひどい。

何だこれ。

 

そう思った。

まあ、これから書くものもそれと大差ものになるだろうけど、良しとしよう。

所詮暇つぶしである。

それにしても「だ・である」調って、なんか気持ち悪いかも。

 

というわけで書こうと思ったのだけれど、こうしてタイピングをする前にB5のルーズリーフに思うがまま綴ったものがあるので、それをネットの片隅にさらそうと思う。

 

以下、その文章である。

()も含めて原文ママ

 

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 昨日から書き始めた「やりたいことリスト」がついに完成した。つまるところ「やりたいこと」を100コ書き出すことに成功したわけだ。いくらか抽象的に過ぎるものもあったかと思うが、まあ許してほしいものだ。

 その中に「ゲームがやりたい」(本来の文章はもう少し条件付けされているのだがそれは略する)というものがあり、私は早速ネットでニンテンドースイッチを検索した。PS5ももちろん考えたのだがしかし、それと接続するためのモニターないしテレビがないので、そちらは諦めることにした。さて、話をニンテンドースイッチに戻そう。もしスイッチを購入したとして、はて私は何のゲームが遊びたいのだろう、と考えた。遊びたいゲームも無いのにゲーム機だけを買うのは実に金の無駄であろう。というわけで、公式サイトで色々と探ってみた。「ポケモンSV」、「ゼルダティアキン」、「スプラ3」、「マリカ8」等々があった。これらはニンテンドーから出ているソフトであって、もちろんこの他にも(インディゲーも含めて)多くのソフトがあるわけだ。少し前まで「ポケモンSV」は遊びたかったし、「ゼルダティアキン」だって気になっていた。それにもかかわらず、それらソフトを眺めた時、別段やりたいという気持ちが起こらなかったのである。これには驚いた。それに残念であった。私は現在「うつ状態」にあるわけだが、それがゆえにゲームに魅力を感じないのだろうか。だとすれば、「うつ状態」が好転すれば(果たして極めたる孤独の中においてそれが好転するのかは甚だ疑問であるが)ゲームへの興味というものが戻るのだろうか。ただ云えることは現在の私にはどうもそれが実のところなかったらしいということである。

 その最中、私は江戸川乱歩著「D坂の殺人事件」を読んでいる。表題の「D坂の殺人事件」と「二銭銅貨」を読み終えた。面白く思えない。そしてネトフリで何かを観ようとしたが、これも観る気にすらならない。これはやはり「うつ状態」に起因するものなのだろうか。ならばよい。というか、そうであってほしい。この「うつ状態」が改善すれば、以前のように物事への興味関心やそれらを楽しむ気持ちが戻るのだろうか。ぜひそうなってほしい。しかし、ここにある懸念がある。それは私の中に物事を喜び楽しむ回路がもはや存在しないのではないか、というものだ。仮にこれが正しいとすれば、これほど絶望的なことはあるまいよ。恐ろしいことに、この仮説を否定する方法がないのが現状である。

 それにしても何もかもつまらぬ。何か面白きことはないか。面白きことはいづこにやあらん。「面白きことはよきことなり」とかの下鴨矢三郎も申したであろう。ああつまらぬ。何も楽しくない。冗談でなく、本当に何も楽しくないのである。困った。おお困った。

 そろそろ書くこともなくなってきた。こうして書くことは楽しくないのかと自らに問うてみる。つまらぬわけではないが、かといって楽しいわけでもない。ただの暇つぶしに過ぎぬ。書くことで何か益を生み出せばよいのだが、しかし実際は書いたところで一切の益を生じさせないのである。誰かに読ませるわけでもなく、というか読ませる相手すらおらぬ。ネット上に公開するという手が無いわけではない。さすれば誰かの目にこの文章は触れるのだろうか。仮に誰かの視界に入ったとしよう。それが何になるというのだ。誰か答えてみよ。一体どうなるというのか。どうにもならぬであろう。では何ゆえ、このような文章を認めているのか。私自身も分からぬ。いや、つい先に書き記したではないか。暇つぶしなのだ。

 私は一体どうしたい? お前は何がしたい? 何を楽しいと思う? どうすれば喜びを得られる?

 それが明らかであれば、そもこのような文章を書かずともよいのである。しかし、書いてしまう。つまり、上のいくつかの疑問に私は答えを持たないのだ。

 これをもし未来の自分が読み返したとしよう。その自分に問いたい。

 お前は喜びを再び手にすることができたか?

 頼む、喜びを取り戻していてくれ。

 今これを書いている私は頭がおかしくなりそうだ。人生を楽しみたいのに、何をしても楽しくなく喜びも覚えない。つらくも悲しくもない。ただ空しいばかりだ。

 私はただ人間という物体としてあるだけで、人間として「在る」わけではないのだ。

疲れたので筆をおく。

さらば。

 

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何でもいいから、スイッチ買ってゲームすれば?

10

「愛」はあまりにわたしと関係がないので。

「幸福」はあまりにわたしと関係がないので。

「世界」はあまりにわたしと関係がないので。

 

だからわたしは死にたい。

 

「死にたい」あるいは「生きていたくない」という思いは、わたしと関係が深いのです。

だからこそ彼らにはあまりに慣れ親しんでしまった。

そういう思いが湧き上がってくるたびに「いらっしゃい、また会ったね」という感じになる。

 

これは一時期わたしがマインドフルネスに関する書籍を読み漁ったから、なのかもしれない。

自分の中に浮かび上がってくる思いをただ眺める。

留まるものと流れていくもの。

明るいものと暗いもの。

浮かんだ思いがどんなものであれ、それを拒まずにただ眺める。

色々な思いを湧き上がらせている自分を、外側から観察する。

 

言い換えるなら、主観的な自分を無関係な他人のように扱う。

 

たぶんわたしの中のマインドフルネスに関する考え方に誤りがあるから、だと思うのだけれど。

ここまで考えてわたしはいつも不思議に思う。

 

マインドフルネスは自分の身体を「ひらく」こともする。

例えばレーズントレーニングはまさにそのためのものだと思う。

なんてことないレーズンを思い切り感じてみる。

五感を研ぎ澄ますというよりも、普段は曖昧にしているそれぞれの感覚への焦点を絞る感じ。

 

それなのに主観的な自分の思いや感情は傍観する。

否定や拒絶をしないという点では、思いや感情に対しても「ひらく」と言えないこともないのかもしれない。

そうすることで主観的な激情に過度に揺さぶられることはなくなる。

 

だけど「これでいいのかな?」と思う。

たしかに「死にたい」という思いをそのまま受け取って、それに従ってしまうのはとても危ないし怖い。

けれど、いつまでも傍観しているだけでは何も改善が見込めない。

 

それに傍観したり観察したりすることにもやがて限界が来るかもしれない。

今だって、たまに暗く淀んだ感情が限りなく主観に接近してくることがある。

それに飲み込まれそうなことがある。

そうなってしまった時の押しつぶされそうな圧迫感はひどく不快で、もちろん死に近づくきっかけにもなる。

 

こんなことを考えたとしても結局のところ、やはり「愛」も「幸福」も、そして「世界」もわたしと関係がないので。

それらとわたしは無縁なので。

悲しくて仕方がない時があるのです。

9

7時に起きて準備をして、混雑した電車に乗って職場へ向かう。

ひどく気疲れした後で退勤して、また混雑した電車に乗り込む。

イヤホンから流れる音楽のボリュームを、人間の存在をわずかでもかき消してくれるまで上げる。

耳に悪いと思いつつも、そうしないと心臓がつぶれそうなんだ。

帰りの電車でスマホのゲームをしている人たちの、その体力が切実に羨ましい。

18時に帰ってきて、なんとかシャワーを浴びる。

温かな水の粒に打たれている間、世界からよい意味で断絶されているような気になる。

 

そういえば、お昼ごはんはコンビニのサンドイッチだけだった。

300円強でする最低限の栄養補給。

 

部屋着になると、とたんにお腹がすき始める。

それなのに食欲がわかない。

それでも食べないといけないように思えてくる。

「なぜ」なんて考える余裕はなくて、頑張って夕飯を食べる。

頑張ってまでして食べるそれに楽しさはなくて、そのことを認めてしまうと空しくてたまらなくなる。

 

そういう生活を強いるのであれば、それに耐えらえるくらいの、それを耐え忍んでもいいと思えるほどの幸せが欲しい。

でもそれは手に入らないから、だから7時から18時が、そうした生活すべてがたまらなくしんどいのです。

8

他者といる時の、あの居心地の悪さは解消できないものか。

同じ空間に自由意思に基づいて行動する生物がいる時に感じる、あの息苦しさはなくせないものか。

結論は不可能である。

そもそも、私自身の在り方がそのように感じさせるのだろう。

 

私は不特定多数の人間が周囲にいることに、ひどい不快感を覚える。

電車の中や大学の講義など、不快感を覚えさせられる場面は山ほどあった。

さらには家族が同じ室内にいることさえも、私から快適さを奪った。

 

なぜこのように感じるような人間に自分がなり果てたのか、まったく分からないこともない。

過去やそこにある経験を掘り返すと、私が現在の様態になった理由がなんとなく分かる。

だが、私がなぜこのようになったのかというのは、あまり考えても意味がないように思う。

なぜなら、いくら考えたところで現在の私が変化し、明日から他者と快適に過ごせる人間に変身するわけではないからだ。

原因を探ることで自分の在り方を客観的に把握することはできても、私の意志とは無関係に発生する不快感を抑えることはできないのである。

 

しかし、私はこのようになった。

問題は、私にそれを選んだという自覚がないことであり、実際にそれが選んだものではないことである。

この世界に自分と同種の生物、すなわち人間と一切かかわらずにその生を終える者は存在しないだろう。

そうであるならば人間と共にあることに負の感覚を覚えることは、生存に際して決して有利に働くものではないように思える。

つまり、この世界でよりよく生存するためには「人間」「他者」という存在に対して好意的であった方がいい、ということだ。

 

元に戻ると、私は現在の自分の在り方を選んだ覚えがない。

もし選べたのであれば、こうはなりたくなかった。

「やり直したい」という思いがあるわけではない。

なぜなら、おそらく結果は同じものになるからだ。

私がこうなった原因は様々考えられるだろうが、その多くは世界や他者との関わりの中に存在したはずだ。

そこから学習した結果が私である。

つまり、私の外部によって私は規定されたことになる。

そこに私の意志が介在することは不可能であり、つまり、自分が規定される過程を私はただ通り過ぎることしかできなかったと考えられる。

 

もちろん自分の考え方や感じ方が引き金であるのだから、そこを作り替えることはできるだろうと考えもした。

実際に色々と思考を変える努力をした。

それによって、世界や他者に対して不快ではなく快を感じられる人間として変化できたのであれば、それはどんなに幸福だっただろうか。

 

時折考える。

あの時、その時、世界が他者が違う反応を返してくれていたらと。

そこで気づくのである。

それは外部に依存していることであると。

しかし私は同時に、依存する以外の選択肢がそもそも与えらていないのではないかと感じた。

 

私たちの意志「……したい、しよう」が働く前に、すでに脳を電気信号が走っている。

大学でその事実を知った時、私は愕然とした。

衝撃を受けて愕然としているこの私は、私の意志とは無関係に、しかし私の脳によって衝撃を受けさせられ愕然とさせられていたからである。

 

今キーボードを叩いている。

思考を経た文章が打ち込まれている。

しかし、私の意志が意識しようとする前に、それが起こることはすでに決められている。

 

私たちに選べるものがあるのだとすれば、一体何をどのくらい選べるのか?

7

時折、自分はこの世界に実在していないのではないかと思うことがある。

質量をもつ物質として存在していることは分かっているし、それが機能しているからこそ思考できていることも分かっているつもりだ。

それでも、自分というものへの不在感を抱くことがある。

 

いるはずなのに、いない。

そんな感覚である。

 

どうしてそのような不在感が胸中に浮かぶのか、自分に問うてみる。

明確な答えは見いだせない。

ただ、その元には無力感があるような気がしている。

 

自分は物として、別の物に作用することができる。

起動しているパソコンのキーボードを叩けば、こうして文字が入力できる。

これは私が物として、別の物に力を及ぼせていることの証明だろう。

なので、不在感の元にあると思われる無力感は、物としての側面で考えた時のものではないということだ。

 

心や精神というものが仮にあるのだとすれば、その点で私は自らに力を認めえない。

乱暴かつ端的に結論すると、私は他者の心にこれっぽっちも変化を起こせないと考えているらしい。

 

私が何をしようが、誰の心も動かせない。

私は誰かの、世界の動きから一方的に感情を揺らがされることはあっても、その逆は決して起こらない。

私は双方向的な関係に立っているのではなく、あくまで一方的な関係の、しかも矢印の先にしかいないのである。

それは外部に対する受動であり、無力感を醸成するには最適とも呼べる環境である。

 

では矢印の矛先でなく、矛元として自らを動作させればよいと考える。

考えるだけでなく、実際にそれを試みてみる。

ところが、力の対象は微動だにせず、それどころか矢印の存在にすら気が付いていないように見える。

 

世界に無視されている。

そのような感覚ではなく、私にとっての外部のありようはそれがスタンダードなのである。

他者の総体としての世界は私の意志とは無関係に動き、時に暴れる。

一切の関与は認められず、その動きをただ見ることのみを強いられる。

 

世界に対して不在であるという感覚を持ちながら、なおも在る。

これは洞窟で影絵だけを見せられている状態なのかもしれない。

真なるものは洞窟の外にあるが、それを知ることは決してできない。

6

物語は怖いと思う。

みんな、物語が好きだ。

物語に自らが浸っているなら、そしてそのことに無自覚なら、その人は大変な快楽を味わうことだろう。

自らが大きなものの一部として正常に働いている。

それに些細ではあるかもしれないが貢献している。

そうした大きな物語の流れの一部に自己を位置づけることは、その物語が正常に作用している、もしくはそのように錯覚できている間に限って、自己の価値が物語によって補完される感覚を生み出す。

実際に補完しているかは別として、本人はそのように感じることができるだろう。

 

そして、その物語に悲劇的な出来事が発生した時、その出来事を利用することで物語は自己強化を図る。

さらに、それを物語の内部にいる者たちが後押しする。

その過程を経て物語は、あたかも万人にとって不変の価値を持つかのように振る舞いだす。

それは物語の拡大であり、その物語に含まれていなかった領域へのさらなる浸食を促すことになる。

 

そうして膨張拡大した物語はある種の宗教のようになっていく。

しかもそうした経緯で誕生した物語は、場合によるが、その物語外の存在に対して非常に不寛容であることが多い。

その内部にいる者たちは自らの感情をごく自然なものとして受け止めている。

それは確かにそうなのだろう。

内部の者たちにとって、その物語の内部で感じた悲しみや喜びはリアルである。

そうした感情が宗教全体で共有されることで、その感情の自然さは物語と同様に物語外への浸食を始める。

その自然な感情とその前提となっている物語という宗教を理解しない者は、彼らにとって非常に不自然なのである。

 

ある感情が抱いて然るべきものとして語られる時、そしてそれがある人々にとっては自然な状態のまま、多くの人に強いられる時、巨大な岩は坂道をある一方向へと転がりだす。

不自然な者たちはそれを止めることができない。

もちろん、信者たちはそれを止めることをしない。

転がり始めてから「止めたほうがいい」と思い始める者たちも現れるだろうが、それはすでに止める機会を逸した後である。

 

ある宗教はすでに広まっている。

この時点で多くの信者を抱えているが、これからもより多くの信者を獲得していくことになるだろう。

特に声を上げることなき者たちはいともたやすくその宗教の信者になり、その中には熱狂的な信者も生まれるかもしれない。

 

この世に喜ばなければならないことは存在しない。

同じく悲しまなければならないことも存在しない。

にもかかわらず、物語という宗教は「必然の感情」の存在を巧妙に示唆する。

これに飲み込まれてしまうことを、私たちは避けたほうがいい。

5

人種差別的な言葉を向けられたことがある。

「お前、○○人だろ」というたぐいのものだった。

私はその時、激しい怒りを覚えた。

こんな言動をする目の前の、これを早く消し去らなければ。

そう思った。

 

私にそれをぶつけてきたものを、私は人間として扱いたくなかった。

なぜなら、他の人間に失礼だから。

人間と呼ぶにはあまりにも気色が悪いと感じた。

それくらい、この言葉を使うのが適切かは分からないが、私にとって人間は高潔なものだった。

でも、後になって気がついた。

私の人間に対するその認識は誤っていたことに。

 

人間は私が想定していたより、期待していたよりもずっと低俗で醜悪だった。

正直、人類なんてさっさと滅んでしまえばいいと思っている。

もちろん、私もその中に当然含まれる。

 

少し戻って「お前、○○人だろ」と発したものについて、その時沸き起こった私の怒りについて考えた。

ちなみに私は「○○人」ではなかった。

指摘が誤っているうえに差別的発言なのだから、語るに値しないような発言だったことは明らかだ。

 

だが考えてみる。

まずその発言の裏に「○○人は……だ」というステレオタイプがあるのは疑いようがない。

「……」の部分にはたいていネガティブな内容があるだろう。

その発言主からすると私は「……」に当てはまる言動ないし行動をしたのだと推測できる。

ゆえに「こいつ(私)は……だから、○○人だ」という、一ミリも理解したくないような結論を導出したに違いない。

書いていて気持ち悪くなってくる。

ある特定の言動や行動を「人種」と結び付けることに、率直に嫌悪感を覚える。

 

私の怒りはことこの点にのみあると言ってよい。

私は「○○人」に対して負のイメージを持っていて、そして、私自身がその瞬間「○○人」だと誤解されたから怒りを覚えたのでは決してなかった。

その発言を裏打ちしている人種差別的思考に対して、私は怒りを覚えたのだ。

それと同時に、拒絶したいという強い衝動にも襲われた。

この発言に対して抵抗しないという形で示すある種の許容は、人間の尊厳への侮辱である。

 

だから、抵抗した。

言葉でもって反撃した。

「あなたはレイシストですね」と。

その後、なぜか私が「お前のほうこそレイシストだろ」とおうむ返しに言われた。

私の言葉をそのまま、おそらく意味も知らなずにリピートするしかなかったのだから、よほどそれは頭が悪かったのだと思う。

まあ、それは人間ではなかったので、果たして頭があるかどうかも疑問だが。

 

しかし、それは「お客様」だったので私の言動のほうが問題視されることになった。

その後、さらに最悪なことに「抵抗するな」と命じられた。

「頭を下げろ」

「謝れ」

この出来事は、私が抱く人間への嫌悪感を際限なく増大させることになった。

 

どうして人間は自由意思で選べなかった多くのことで、他者を判断しようとするのだろうか?

さらには、それを根拠に攻撃し貶めようとするのか?

 

生まれた国、地域は?

年齢は?

親は何をしているのか?

兄弟姉妹はいるのか?

母国語は何か?

髪の色、肌の色、瞳の色は?

血液型は?

右利き、それとも左利き?

 

気持ちが悪い。

 

人間という生物は実に醜い。