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他者といる時の、あの居心地の悪さは解消できないものか。
同じ空間に自由意思に基づいて行動する生物がいる時に感じる、あの息苦しさはなくせないものか。
結論は不可能である。
そもそも、私自身の在り方がそのように感じさせるのだろう。
私は不特定多数の人間が周囲にいることに、ひどい不快感を覚える。
電車の中や大学の講義など、不快感を覚えさせられる場面は山ほどあった。
さらには家族が同じ室内にいることさえも、私から快適さを奪った。
なぜこのように感じるような人間に自分がなり果てたのか、まったく分からないこともない。
過去やそこにある経験を掘り返すと、私が現在の様態になった理由がなんとなく分かる。
だが、私がなぜこのようになったのかというのは、あまり考えても意味がないように思う。
なぜなら、いくら考えたところで現在の私が変化し、明日から他者と快適に過ごせる人間に変身するわけではないからだ。
原因を探ることで自分の在り方を客観的に把握することはできても、私の意志とは無関係に発生する不快感を抑えることはできないのである。
しかし、私はこのようになった。
問題は、私にそれを選んだという自覚がないことであり、実際にそれが選んだものではないことである。
この世界に自分と同種の生物、すなわち人間と一切かかわらずにその生を終える者は存在しないだろう。
そうであるならば人間と共にあることに負の感覚を覚えることは、生存に際して決して有利に働くものではないように思える。
つまり、この世界でよりよく生存するためには「人間」「他者」という存在に対して好意的であった方がいい、ということだ。
元に戻ると、私は現在の自分の在り方を選んだ覚えがない。
もし選べたのであれば、こうはなりたくなかった。
「やり直したい」という思いがあるわけではない。
なぜなら、おそらく結果は同じものになるからだ。
私がこうなった原因は様々考えられるだろうが、その多くは世界や他者との関わりの中に存在したはずだ。
そこから学習した結果が私である。
つまり、私の外部によって私は規定されたことになる。
そこに私の意志が介在することは不可能であり、つまり、自分が規定される過程を私はただ通り過ぎることしかできなかったと考えられる。
もちろん自分の考え方や感じ方が引き金であるのだから、そこを作り替えることはできるだろうと考えもした。
実際に色々と思考を変える努力をした。
それによって、世界や他者に対して不快ではなく快を感じられる人間として変化できたのであれば、それはどんなに幸福だっただろうか。
時折考える。
あの時、その時、世界が他者が違う反応を返してくれていたらと。
そこで気づくのである。
それは外部に依存していることであると。
しかし私は同時に、依存する以外の選択肢がそもそも与えらていないのではないかと感じた。
私たちの意志「……したい、しよう」が働く前に、すでに脳を電気信号が走っている。
大学でその事実を知った時、私は愕然とした。
衝撃を受けて愕然としているこの私は、私の意志とは無関係に、しかし私の脳によって衝撃を受けさせられ愕然とさせられていたからである。
今キーボードを叩いている。
思考を経た文章が打ち込まれている。
しかし、私の意志が意識しようとする前に、それが起こることはすでに決められている。
私たちに選べるものがあるのだとすれば、一体何をどのくらい選べるのか?