7
時折、自分はこの世界に実在していないのではないかと思うことがある。
質量をもつ物質として存在していることは分かっているし、それが機能しているからこそ思考できていることも分かっているつもりだ。
それでも、自分というものへの不在感を抱くことがある。
いるはずなのに、いない。
そんな感覚である。
どうしてそのような不在感が胸中に浮かぶのか、自分に問うてみる。
明確な答えは見いだせない。
ただ、その元には無力感があるような気がしている。
自分は物として、別の物に作用することができる。
起動しているパソコンのキーボードを叩けば、こうして文字が入力できる。
これは私が物として、別の物に力を及ぼせていることの証明だろう。
なので、不在感の元にあると思われる無力感は、物としての側面で考えた時のものではないということだ。
心や精神というものが仮にあるのだとすれば、その点で私は自らに力を認めえない。
乱暴かつ端的に結論すると、私は他者の心にこれっぽっちも変化を起こせないと考えているらしい。
私が何をしようが、誰の心も動かせない。
私は誰かの、世界の動きから一方的に感情を揺らがされることはあっても、その逆は決して起こらない。
私は双方向的な関係に立っているのではなく、あくまで一方的な関係の、しかも矢印の先にしかいないのである。
それは外部に対する受動であり、無力感を醸成するには最適とも呼べる環境である。
では矢印の矛先でなく、矛元として自らを動作させればよいと考える。
考えるだけでなく、実際にそれを試みてみる。
ところが、力の対象は微動だにせず、それどころか矢印の存在にすら気が付いていないように見える。
世界に無視されている。
そのような感覚ではなく、私にとっての外部のありようはそれがスタンダードなのである。
他者の総体としての世界は私の意志とは無関係に動き、時に暴れる。
一切の関与は認められず、その動きをただ見ることのみを強いられる。
世界に対して不在であるという感覚を持ちながら、なおも在る。
これは洞窟で影絵だけを見せられている状態なのかもしれない。
真なるものは洞窟の外にあるが、それを知ることは決してできない。