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物語は怖いと思う。
みんな、物語が好きだ。
物語に自らが浸っているなら、そしてそのことに無自覚なら、その人は大変な快楽を味わうことだろう。
自らが大きなものの一部として正常に働いている。
それに些細ではあるかもしれないが貢献している。
そうした大きな物語の流れの一部に自己を位置づけることは、その物語が正常に作用している、もしくはそのように錯覚できている間に限って、自己の価値が物語によって補完される感覚を生み出す。
実際に補完しているかは別として、本人はそのように感じることができるだろう。
そして、その物語に悲劇的な出来事が発生した時、その出来事を利用することで物語は自己強化を図る。
さらに、それを物語の内部にいる者たちが後押しする。
その過程を経て物語は、あたかも万人にとって不変の価値を持つかのように振る舞いだす。
それは物語の拡大であり、その物語に含まれていなかった領域へのさらなる浸食を促すことになる。
そうして膨張拡大した物語はある種の宗教のようになっていく。
しかもそうした経緯で誕生した物語は、場合によるが、その物語外の存在に対して非常に不寛容であることが多い。
その内部にいる者たちは自らの感情をごく自然なものとして受け止めている。
それは確かにそうなのだろう。
内部の者たちにとって、その物語の内部で感じた悲しみや喜びはリアルである。
そうした感情が宗教全体で共有されることで、その感情の自然さは物語と同様に物語外への浸食を始める。
その自然な感情とその前提となっている物語という宗教を理解しない者は、彼らにとって非常に不自然なのである。
ある感情が抱いて然るべきものとして語られる時、そしてそれがある人々にとっては自然な状態のまま、多くの人に強いられる時、巨大な岩は坂道をある一方向へと転がりだす。
不自然な者たちはそれを止めることができない。
もちろん、信者たちはそれを止めることをしない。
転がり始めてから「止めたほうがいい」と思い始める者たちも現れるだろうが、それはすでに止める機会を逸した後である。
ある宗教はすでに広まっている。
この時点で多くの信者を抱えているが、これからもより多くの信者を獲得していくことになるだろう。
特に声を上げることなき者たちはいともたやすくその宗教の信者になり、その中には熱狂的な信者も生まれるかもしれない。
この世に喜ばなければならないことは存在しない。
同じく悲しまなければならないことも存在しない。
にもかかわらず、物語という宗教は「必然の感情」の存在を巧妙に示唆する。
これに飲み込まれてしまうことを、私たちは避けたほうがいい。