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「愛」はあまりにわたしと関係がないので。
「幸福」はあまりにわたしと関係がないので。
「世界」はあまりにわたしと関係がないので。
だからわたしは死にたい。
「死にたい」あるいは「生きていたくない」という思いは、わたしと関係が深いのです。
だからこそ彼らにはあまりに慣れ親しんでしまった。
そういう思いが湧き上がってくるたびに「いらっしゃい、また会ったね」という感じになる。
これは一時期わたしがマインドフルネスに関する書籍を読み漁ったから、なのかもしれない。
自分の中に浮かび上がってくる思いをただ眺める。
留まるものと流れていくもの。
明るいものと暗いもの。
浮かんだ思いがどんなものであれ、それを拒まずにただ眺める。
色々な思いを湧き上がらせている自分を、外側から観察する。
言い換えるなら、主観的な自分を無関係な他人のように扱う。
たぶんわたしの中のマインドフルネスに関する考え方に誤りがあるから、だと思うのだけれど。
ここまで考えてわたしはいつも不思議に思う。
マインドフルネスは自分の身体を「ひらく」こともする。
例えばレーズントレーニングはまさにそのためのものだと思う。
なんてことないレーズンを思い切り感じてみる。
五感を研ぎ澄ますというよりも、普段は曖昧にしているそれぞれの感覚への焦点を絞る感じ。
それなのに主観的な自分の思いや感情は傍観する。
否定や拒絶をしないという点では、思いや感情に対しても「ひらく」と言えないこともないのかもしれない。
そうすることで主観的な激情に過度に揺さぶられることはなくなる。
だけど「これでいいのかな?」と思う。
たしかに「死にたい」という思いをそのまま受け取って、それに従ってしまうのはとても危ないし怖い。
けれど、いつまでも傍観しているだけでは何も改善が見込めない。
それに傍観したり観察したりすることにもやがて限界が来るかもしれない。
今だって、たまに暗く淀んだ感情が限りなく主観に接近してくることがある。
それに飲み込まれそうなことがある。
そうなってしまった時の押しつぶされそうな圧迫感はひどく不快で、もちろん死に近づくきっかけにもなる。
こんなことを考えたとしても結局のところ、やはり「愛」も「幸福」も、そして「世界」もわたしと関係がないので。
それらとわたしは無縁なので。
悲しくて仕方がない時があるのです。