Hopeless Diary

倦んでいます。

4

カテゴリーで人を判断しそれに基づいて好嫌の選別することを、私は忌避したい。

だが、これまでの人生とその中で経験してきたことで、私は特定のカテゴリーに分類される人間に対して、ほとんど反射的に嫌悪感を抱くようになった。

頭や理性では「やめたい」と思うのだけれど、「染みついてしまったから仕方ないのかも」とも最近は思うようになった。

 

私は年老いた人間と男性が嫌いだ。

この二つを共に持ち合わせる人間に対しては、より大きな嫌悪感を覚える。

これまで生きてきた中で、これらのカテゴリーに属する人間から「言葉」ではなく「力」で対応されてきたことが多かったからだと思う。

 

一方的に他者を怒鳴りつける、ゴミのような人間がいる。

彼らが発している音声がたとえ言語として解せるものだとしても、私からすればそれは言葉ではない。

言葉とは、対等な者同士が平和的に意思疎通を図る時に使われるものだ。

私はそう思っている。

 

言葉を感じられる機会は、私が思い描いていたよりもずっと少なかった。

残念で仕方がないけれど、本当に少ない。

 

「言葉は無力だ」なんてつまらないフレーズが思い浮かぶ。

それはそうだろうな、と思う。

言葉は、言葉を使う者同士の間でのみ有効なのだ。

言葉を使わないものが多ければ、当然言葉に効力はない。

 

そういう私自身が言葉を使えているのか、それは分からない。

ただ、できる最大のかぎりにおいて使いたいと常々思っている。

3

世の中には囲いがたくさんある。

時間の経過とともに広がる囲いもあれば、狭まる囲いもある。

どちらがよいという話ではなく、ただそういうことがある。

囲いは準備されるものもあるけれど、時折唐突に出現することもある。

もちろん、唐突に消えてしまうこともある。

 

囲いの中にいると心地がいい時もあれば、不快な時もある。

そうではあるのだけれど、最終的にはどんな形であれ囲いの中にいるほうがよい気がしている。

 

囲いの外側にいるような気がする。

望んでそこにいるわけではないと断言できるのだけれど、しかし、なぜか囲いの中にいることができていない。

 

世界の様々なことの大半は囲いの中で起きている。

だから囲いの外側にいると、多くのことへの関心を失っていく。

なぜなら、囲いの中の出来事は主として囲いの中にいる者に関係していることだからだ。

2

私にとっての幸福はいつだって画面の向こう側のものだ。

つまり現実にあるものではなくて、虚構にのみあるもの、それが幸福。

 

友情や愛情、喜びや快楽は画面の中の登場人物たちが経験することで、現実の私には決して訪れないものだった。

「だった」と過去形で記したけれど、それは現在進行形で感じていることでもある。

やっぱり幸福は画面の向こうにしかない。

そう思っている。

 

幸福は現実にないから、虚構の中のそれに嫉妬することもある。

画面の向こうの眩さに焦がれている自分がいる。

だけど手を伸ばすことはない。

ただ液晶に指が触れるだけだから。

 

嫉妬とか羨望とか、そういう思いを抱えることは苦しい。

今ここにいる自分自身では叶えられないから、つかみ取ることができないからこそ、幸福に強く焦がれる。

その焦がれた状態を自らのうちにとどめることは、とても耐えられない。

だから時折、幸福で充ち満ちた虚構から離れる。

虚構から離れることで現実に幸福がもたらされる。

そんな勘違いをしてみる。

結果として、やっぱり幸福は画面の向こうに閉じ込められていて、こちらには決してやって来ない。

そうして、また虚構の中の幸福を求めるようになる。

虚構の中の登場人物たちに自分を投影して、錯覚してみるのだ。

私は幸福の渦中にある、という錯覚を。

空しいことだけれど、最善策ではないと分かっているけれど、私にはその選択肢以外に選べるものがない。

なぜなら、私にとって幸福は現実にないものだから。

 

では「幸福が現実にないと思うか?」と問われると、答えは「いいえ」だ。

幸福は虚構の中だけでなく現実にもある。

ただし、私のいるここにはない。

でも、私は知っている。

幸福が現実にあることも、その幸福を手にすることができる人の存在も。

繰り返すが、ただそれが私ではないだけなのだ。

 

虚構の中にだけあるはずの幸福が現実にもあることが、私には不思議だった。

しかしそれは事実であるのだから、認めないわけにはいかない。

そうなると現実にあるはずの幸福を手にできる存在と、そうでない存在がいることに気づかなければならない。

そして、自分が後者の側に立たされていることも。

それに気づいた時、否応なく私は嫉妬、羨望を覚えた。

やがてそれらは憎悪へと変貌する。

だが、それも過去の話だ。

今、そのたぐいの憎悪はない。

 

なくなったのは幸福を手にする存在への憎悪であって、幸福の不均衡に対する憎悪は消えていない。

それは個別具体の人間への憎悪ではなく、世界の在り方への憎悪だろう。

誰かが富んでいるのに、別の誰かは貧しい。

そういう構造への憎悪。

不公平への憎悪。

いや、もしかするとこれへの憎悪ももはや私にはないかもしれない。

あったとしても、相当に薄められているような感じを覚え始めた。

なぜなら、世界はそういうものだから。

 

私たちはどのくらいのことを選べているのだろうか。

まずもって人間として生を享けることを選べていない。

生まれる国も時代も選べていない。

親や兄弟も選べていない。

肌、髪や目の色も選べていない。

その後、私たちは徐々に選べるようになっていく。

入学する学校や付き合う友人、眠る時間や夕食の献立を選べるようになる。

果たして、そうだろうか。

私からすれば、人間は選べるようになるのではなく、「自らで選んだ」という錯覚ができるようになるだけのような気がする。

1

一方通行だな。

 

自分の人生について考えた時、そう思った。

人間は過去から未来という「時間」に基づいた認知しかできないのだし、今この瞬間から時を遡行することはできないのだから、一方通行だと感じるのは当たり前のように思える。

 

でも、もっと浅いレベルの話で、私は自分の人生に「一方通行」を感じたのだと思う。

 

一方通行は文字通り、一方向にのみ進むことが許される。

それは双方向ではない。

たぶん、この点が重要なのだと思う。

 

車線は一車線というわけではない。

対向車線の存在を感じる。

だが、誰も何もそこを走っていない。

だから、こちらに向かってくるものを私は知らない。

 

他者への思いも、世界へのかかわりも。

何もかもが一方通行だ。